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2005年 7月
| 第三話(湘南海浜風俗史シリーズ1)ジャズとハワイアン・ミュージック |
「湘南海浜風俗史」
50年代の湘南文化を彩ったジャズとハワイアン・ミュージック
太平洋戦争が終わり、平和を取り戻した湘南海岸は、米国進駐軍の保養地ともなりました。逗子から茅ヶ崎につながる砂浜に、海水浴を楽しむ米兵達が数多く見られた時代です。
湘南の若者には異文化のライフスタイルのなにもかもが新鮮に映ったものです。
進駐軍向けラジオ放送(現在はFEN、当時はWVTR IN TOKYO)からは、各種のジャズ・カントリーウエスタンや、当時の我が国で四大ハワイアンバンドといわれた、日本人によるハワイアンの生演奏が放送されていました。四大ハワイアンバンドとは、バッキー白片とアロハハワイアンズ、大橋節夫とハニーアイランダース、ポス宮崎とコニーアイランダース、寺部頼幸とココナッツアイランダーズのことです。放送には日比谷から田村町にかけての通りにあった、NHKのスタジオが使用されましたが、ミュージシャンを初め音楽関係者が多数、湘南から通っていました。
戦前から湘南地方は、外国音楽愛好者・ミュージシャンが、国内では比較的多く居住していた地域で、戦後の米国進駐軍の影響に依るジャズ系(ジャズ・ハワイアン・カントリー等)の音楽をいち早く、消化、発展させたのが、彼らです。
米国進駐軍内部で発刊された「HIT・KIT」と言う歌曲集が、彼らにとってバイブル的存在となり、数多くの曲がレコーディングされた「V disk?」は、メロディーは勿論、フィーリング、演奏スタイルのお手本となる貴重なレコードでした。
一方、戦後のことで 湘南地域には、大きなステージやクラブ等は皆無に近く、その様な環境でジャズ、ハワイアンが聞ける場所は、逗子の池子キャンプと横須賀のEMクラブの進駐軍施設だけだったのではなかったかと記憶しています。日本各地の米軍キャンプのクラブで、常にジャズが流れていた時代です。
米軍キャンプ以外の場所も米軍専用施設ばかりでしたが、鎌倉由比ガ浜海岸に「リビエラ」と呼ばれるクラブがありました。後にレストランの「大海老」となり、現在はマンションに転換された場所です。
暫くの間は米軍専用のクラブでしたが、或る時期から日本人も遊べる場所となりました。ミュージシャンは、その時期から日本人プレイヤーが多かったと記憶していますが、演奏されたジャズ、ハワイアンのメロディーと共に、湘南地域・横浜・東京の洒落者が交流した、楽しい思い出が残っています。
このような環境でしたから、湘南地域では、戦後の早い時期から、あちらこちらの家庭で、小演奏会・ダンスパーティー等が開かれ、また夏の海辺ではビーチパラソルの下で寄り集って、ウクレレを弾き、ジャズ系のラジオ音楽を楽しんでいました。
日本の復興が進んできた50年代の後半ともなると、湘南の各地には、家庭以外にも、若者が社交できるホテルがいくつか出現します。「江ノ島海浜ホテル」「鎌倉山ロッジ」「七里ガ浜ホテル」などです。
逗子ではリゾートホテルの「渚ホテル」が社交場となりました。戦前からのホテルですが、戦後再開された後も、サービス・食事が良く 東京方面からの宿泊客も多くありました。
これらのホテルでは折にふれ、「ダンスパーティー」が催され、当地の紳士・淑女が、その頃、爆発的に広まっていた、ハワイアンやロックンロールの演奏を聴き、流行していたダンスの「ジルバ」を盛んに踊ったものです。
最近ウクレレが小さなブームとなっていますが、50年代のウクレレは、現代の奏法、対象のメロディーとは、いささか異なりました。このあたりについては次回に述べたいと思います。
住吉 弘
住吉さんは鎌倉在住70年。慶応義塾大学を卒業され、湘南地方在住のミュージシャンと幅広い交流があります。戦後はハワイアン・バンドを編成されていました。
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06:23, Sunday, Jul 31, 2005 ¦ 固定リンク
| 第二話 われこそ元祖湘南・太陽族:かぎ家の謙ちゃん |
the 50es若者たちの生きざま「われこそ元祖湘南・太陽族」
第二回 山本三津子さん(葉山森戸「海狼」専務)
1958年(昭和33年)、とある銀座の料理屋で「太陽族元祖会」が結成されました。
集まった面々は、その青春時代を逗子・葉山の海でヨットを走らせた仲間たち。彼らを写した1枚の写真、既に映画スターとして人気を博していた裕次郎さんの右隣で優しく微笑んでいるのが、山本淳正さんでした。
「太陽の季節」の登場人物・西村のモデルともいわれる淳正さんの一人娘で、今も森戸でお父様の後の店を守る山本三津子さんに、「太陽族」とお父様の思い出について綴っていただきました。
あまりにも有名な「太陽族元祖会」。若い日の絆は、世を去るその日まで固く結ばれていた。前列向かって左から2番目が山本さん、3番目が裕次郎
「かぎ家の謙ちゃん」は、
湘南生まれの神童で、喧嘩っぱやい。
私の父 山本淳正のことを、葉山の昔ながらの地元の方々や、父の古くからの友人は皆、かぎ家の謙ちゃんと呼んでいました。
葉山御用邸の開設と同時期に、葉山森戸橋の畔に明治27年にかぎ家旅館を建て、父は昭和8年にこの旅館で生まれたそうです。
父 淳正が11才の年に父親と実弟が病気で亡くなったそうで、以後祖母は父を大切に大切に育てたと。祖母や父の友人たちから聞いた話では、「神童」は湘南中学に入学した後、やがて「悪の化身」と呼ばれ方が変わっていったと。中学生にして、一端の大人の遊びは無論、喧嘩も強かったと。
山本淳正さん若き日
Gパン・アロハに酒、ビリヤード…。
カッコよかった、「太陽族」の父。
昔の葉山は、それは賑やかだったそうです。そんな時代に父は、生涯の友人でもある石原裕次郎さんをはじめとする出会いの中、かぎ家旅館を中心に、ヨットに夢中になり学校にも行かず、麻雀、ビリヤード、クラブ、酒、女、喧嘩にあけくれるような毎日を過ごしていました。若いうちからお洒落にも気を使い、白いTシャツ・Gパン・素足にデッキシューズ、アロハシャツ…当時の写真を見ると、娘の私でもほれぼれするほどカッコよかった。でもそんな派手な遊びをしていても、友情と信頼、ルールがあったからこそ、まわりの大人から黙認されていたのでしょう。
あんな時代でしたから父は、石原慎太郎・裕次郎兄弟とも同級生で元祖太陽族とも呼ばれ、「太陽の季節」に描かれた世界そのものを謳歌したのだと思います。
ギラギラ照りつける陽射の下、サングラスは太陽族の必須アイテムだった。山本さん(左)と裕次郎(右)
太陽族の映画は、太陽族が生まれたその場で撮影された。
いかに多くの友人を持てるか―。
父が教えてくれた、人生で一番大切なこと。
私たち子供たちにとっては、家族をとても大切にし、厳しくもあり、また優しい父の印象しかありません。
人の一生の中で一番大切なことは、お金や地位や名誉じゃない、いかに多くの友人を持てるかだと、晩年の父は申しておりました。
人生の節目に、友は常に駆けつけた。後列左端が裕次郎
裕次郎さんが亡くなる直前、妙な胸騒ぎがして思わず潮の満ち引きを調べたこと。そしてあの7月17日、病院にGパンとビーチサンダル姿で駆けつけ、親族の他に友人として唯一、臨終に立ち会うことができたのです。帰宅後、声を出して泣いていた父の姿を、今でも思い出します。
時代は変わりつつも、ここ逗子葉山には変わらぬ海と山があります。
そして変わらぬ友情、それは父の一生の中で語りつくせぬぐらいの想い出がいっぱいあるのでしょう。
そんな父も今年永眠し、今では当時の写真を見ながら話してくれたよき時代が、私の想い出として残っています。
ヨット(裕次郎さんと葉山沖で。女性は白川由美)
ヨットと揺れる水面。逗子・葉山沖にて。


取材・文責:実行委員会 |
11:14, Thursday, Jul 14, 2005 ¦ 固定リンク
第一話 太陽の季節の時代
私の証言(1) 皇室と逗子と太陽族
当時の横須賀線は冷房も無く、逗子駅に降りるとなんとも涼しく澄んだ空気に
思わず深呼吸をして生き返ったほどでした。
人口も少なかった為、見知った顔が多く、駅で出会えば
「ヤァーヤァー」と声をかけ合う和やかな時代でした。
横浜横須賀道路も逗葉新道もない時代ですから、
逗子葉山を大変愛された皇室の方々も例外ではありません。
葉山の御用邸に行かれる陛下も逗子駅を利用されていました。
逗子駅が葉山への、唯一のゲート・ウェイだからです。
昭和天皇は、ご公務ご多忙の中、海洋生物のご研究、
ご静養とご滞在になられ、近くの漁師達とも親しくされておられました。
逗葉の町民は、ワイシャツを腕まくりされ、
麦わら帽子、長靴のお姿に、益々親近感を深めたものでした。
今上陛下は学生時代でいらしたことから、友人達と舟を出されて泳がれたり、ある時はテニスに、あるときは近隣の友人宅などにお出ましされていました。きっと、思いで深い良い時をお過ごしでいらしたと思います。
御用邸としては近隣に住民が多い葉山は、若い頃からの親しみある土地なのでしょう。
現在でもご公務の合間に年に何度かのご来訪は続いて、
必ずといってよいほどテニスもプレイされておられます。
地元ではその折々に温かいお人柄に接することが出来、
大きなよろこびになっていることは変わりません。
逗子の海は、今と違って海岸線が未整備で、コンクリートの建物も無く、
海岸沿いは別荘の名残りの大きなお屋敷が多いのが特徴的でした。ある時は近道のため、
お庭先きをちょっと失礼して海岸に降りるという、のどかなものでした。
その砂浜には、太陽族といわれた“お兄さん達が”、アロハあり、白シャツあり、
サングラスのニューファッション(?)で身をかため、肩をいからせて、カッポしていました。
何処か、育ちの良さが見えると共に不良を演じている風でした。ヨットのそばでたむろしている彼等に、若い女性達は熱い視線をおくり、
それにこたえている様は、まさに「太陽の季節」そのものです。
その時代の大人の眼にはどう写っていたのでしょうか、
多分「あのお坊ちゃまがー」と思われていたかも知れません。
海辺のあの赤いパラソルには、何処の女子大生達、あちらには慶応生達のグループと、
逗子海岸は、住民子弟の社交場と化していました。
近年は逗子も開発されて、人口も増し、海岸線にはレストランやマンションが建ち並びます。
ヨットだけでなく、数多くのウィンド・サーフィンでにぎわう様になり、ずいぶん変わりました。
昔の様子を思い起こすのが難しいほどです。
知り合いの太陽族のお兄さん達、またその弟分達は長じて結構まともな大人になり、
すでに老人の仲間入りをしています。いまさらながら早い年月に驚いています。
福井ふさ子
福井さんは現在葉山在住。湘南白百合学園、聖心女子大学卒業。
ご主人は今上陛下のテニスのご学友です。
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12:39, Wednesday, Jul 13, 2005 ¦ 固定リンク
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