「太陽族」時代の逗子海岸

 「太陽の季節」が書かれた1950年代の世相や文化について紹介します。
第五話「太陽族」的ヘアスタイル‘慎太郎刈り’ 塩沢茂一さん
第四話(湘南海浜風俗史シリーズ
第三話(湘南海浜風俗史シリーズ1)ジャズとハワイアン・ミュー ..
第二話 われこそ元祖湘南・太陽
第五話「太陽族」的ヘアスタイル‘慎太郎刈り’ 塩沢茂一さん
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塩沢茂一さん


少し長めの前髪が額にかかり、脇は短くすっきりと刈り上げられた「慎太郎刈り」。
芥川賞受賞当時の慎太郎さんのヘアスタイルはメディアに取り上げられ、写真や映像を通して瞬く間に日本中に広まって、小説の中の生き様やファッションとともに、若者の流行のひとつとなりました。
今回は、‘慎太郎刈り’が生まれた理容店、逗子・池田通りの塩沢理容店主 塩沢茂一さんに、お話をうかがいました。



流行の最先端‘慎太郎刈り’

―‘慎太郎刈り’のスタイルのポイントは?

「慎太郎さんは短い頭がお好きです。1.5mmのバリカンを使います。
もともと慎太郎さんはショート系の頭でしたが、ほうっておくと前髪が落ちるんですね。
それがいやということで。
当時は「こて」を熱して前髪にクセをつけてあげていましたが、慎太郎さんの場合、サッカーや柔道などスポーツマンでいらしたので、どうしても汗をかき前髪がおちる。
それならあらかじめ前髪が下がったスタイルにしようということで、前を下げ、脇を刈り上げました。しばらく試行錯誤を繰り返し、慎太郎刈りのスタイルが出来上がりました。
その後、芥川賞後、東京新聞の記者の方だったかがその髪型を‘慎太郎刈り’と命名しました。
すると、東宝や日活の青春スターが慎太郎刈りにしてファンにアピールしました。しかし慎太郎さんご本人は、名前を呼び捨てにされるので嫌っていたようでした。しかしそれとはお構いなしに、若者のファッションとしてブームを起こしました。
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おもむろにDVDプレーヤーを出してきた塩沢さん。
映し出されたのは、石原裕次郎3作目の日活映画「ジャズ娘誕生」のワンシーンだ。
裕次郎出演映画の中でも珍しいミュージカルもので、美空ひばり・雪村いずみとの‘三人娘’で有名だったヒロイン役の江利チエミが、若者を探しながら「‘慎太郎刈り’のアンちゃんは?」と問いかけるシーンがでてくる。
まさに、‘慎太郎刈り’が当時の流行最先端だったことがうかがえる興味深いシーンだ。


「‘慎太郎刈り’を‘裕次郎刈り’と呼ぶファンの方もいたらしいですね。調布の撮影所の俳優さんも、わざわざ髪を切りに来ました。慎太郎さんは映画を志していましたし、2本の映画に出演していますし、映画会社に入り監督もしていますね。
1.5mmのバリカンでかなり短くカットしますから、撮影のライトを浴びて地肌がハレーションを起こすのではないかと心配しましたが、撮影の時は(地肌に)墨を塗ってくれるから大丈夫、ということで、なるほど、と。そうでなければ、髪の色が飛んでしまいますから。


 ―慎太郎さんは細面だったから、脇を短く刈り上げる‘慎太郎刈り’がよく似合うということでしたね。

やはり髪型の基準はというのは、その人の顔のシルエットに合う形にすることです。
だから長い顔の人に合う髪型を丸顔の人に合わせるのは難しい。
でも丸顔の人は、長い顔の人に似合う髪形に憧れます。
たとえ丸顔の方でもお客様がご希望されるならできる限りのアレンジはしますけれど。お客様ご本人はその頭にすると、例えば裕次郎みたいになれる、と思われるのですね。
今も昔も同じです。
‘慎太郎刈り’には整髪料は一切使いませんでした。
その前の時代はチックとポマードを多用する髪形が主流でしたが、それらを使わないで、最新の流行の髪型にでき、手間がかからないこともあって、‘慎太郎刈り’は若い方に人気が出たのでしょうね。

戦争に負けた後、日本は衣服も買えないくらい貧しかった。
たとえば丸の内や銀座など東京の中心地で行われる結婚式やパーティでも、人々は接ぎのついた服や古い靴を履いていました。そのような中、おしゃれを楽しめる唯一のものこそ髪型だったのです。
だから昔の方は、2週間に一度は髪を切りにいらっしゃいました。
また髪型にも凝りました。当時、リーゼントヘアが流行ったのですが、それには整髪料をたっぷりと使いました。
日本人は直毛で、髪を調えようにも言うことを聞かないから、整髪料を使わなければならなかったのです。
また、昔ながらの‘髪は美しく調えるべき’髪を撫で付ける、身づくろい、という感覚も残っていました。
ヘアスタイルに関する日本人の意識が大きく変わったのは、ベトナム戦争の前後からですね。当時アメリカの兵隊はいわゆる‘GIカット’という、長いバリカンと短いバリカンを使う髪型に強制的にされていました。
アメリカは徴兵制でしたから、若い人たちは、戦争に行くのに反対の意志を表して、髪を切らずロングヘアにしました。それをみた日本の若者たちは、アメリカでロングヘヤが流行っていると、真似をしてロングヘアにしました。
ベトナム戦争の終了と同時にアメリカの若者は髪を短くしましたが、日本の若者たちはしばらく髪を伸ばしていました。
昔から言われるように、髪型も時代によって変わります。
ただ今は、スキンヘッドからロングからなんでもあり、ですね。ご自身にとって良い悪い、より、流行に流されている、という感じも受けます。





慎太郎さんエピソードあれこれ

―慎太郎さんとは、小学校からのご友人とか。

慎太郎さんが店に来るようになったきっかけは、私の弟祐二と慎太郎さんの弟裕次郎さんが逗子小学校の同級生だったことです。
慎太郎さんが小学5年生、裕次郎さんが小学3年生のとき小樽から転校してきましたが、同じクラスになった弟と裕次郎さんは「祐裕コンビ」と呼ばれるほど仲が良かったようです。
逗子中学校でも一緒で、二人が中心になってバスケットボール部を創りました。
校庭に、ポールが1本立っていただけだったらしいですが。当時逗子の桜山にあった石原家にも良く遊びに行っていました。
そのような縁で、店に髪を調えにいらっしゃるようになったのです。
私が鮮明に記憶していることのなかに、うちの親父がアイスクリームをご馳走した2人の若者のことがあります。その一人が慎太郎さんです。
芥川賞より前のことでしたが、当時一橋大学の学生だった慎太郎さんは、逗子から通うのは大変だからと学生寮に入り、月に一、二度、逗子に帰ってきました。
ある時髪を切りに来た慎太郎さんに、ウチの親父は池田通りにあった明治牛乳からカップ入りのアイスクリームを1個だけ買ってきてご馳走していました。その頃アイスクリームは大変な貴重品。
そして店には幾人ものお客様が来ましたが、アイスクリームをご馳走したお客様は、慎太郎さんと、もう一人富士ゼロックスの高久君だけでした。
その二人に共通するのは、お父さんを亡くしていた、ということでした。早くに父親を亡くし、慎太郎さんも若くして既に大変な苦労人でした。
それを親父は慰めるつもりだったのか、元気を出してほしい、という気持ちでご馳走したのでしょう。


「おじさん、モーニングを持っていますか?」
ある時、髪を切りに来て、親父に聞かれました。
「床屋風情にモーニングはないけど、授賞式に着て行くのですか?」とたずねると、
すると、「いいえ、結婚するんです」と言いました。
そこで平山さんという(逗子の)新宿在住の名士の方へ電話をしたら、夏と冬のモーニングがあるから見にいらっしゃい、と言われ、一緒に見に行きました。
だが慎太郎さんは痩せ型、平山さんはがっしりとした体格で、借りようとしていたモーニングはぶかぶかで着られなかったそうです。
お母様が亡くなった時、慎太郎さんはお香典返しにと、私に京セラのカメラを送ってきました。私が写真を趣味にしていることをご存知なので、そういう気遣いをしてくれたのでしょう。テレビの中で見せる硬派なイメージとは違う、細やかな人柄を感じました。
私の店ではどんな場合でも予約は取りません。
そしてお客様によって扱いを変えません。
慎太郎さんでも、店が混んでいれば待っていただきます。
慎太郎さんにとっても、特別扱いをしないほうが良かったようです。
ただ一回だけ、参議院の全国区に出たときどうしても時間がなくて予約をとったことがあります。
先に秘書の方が来て「これから慎太郎が来るのでお願いします」というので、お取りしました。その時だけ、です。
逗子から田園調布に引っ越した後も、時々髪を切りにみえました。
ある時髪を切りながら、黒々として一本も白いものがない髪を見て(慎太郎さんいつまでも若々しいな)と思っていました。
その後4、5日して裕次郎さんが慶応病院に入院し、しばらく髪を切りにいらっしゃいませんでした。その後ふた月位して、久しぶりに髪を切りに店にみえたとき、髪をみてあっと思いました。
白髪がふわぁっと出ていたのです。私は今まで何万人もの髪を切ってきましたが、そういうことになった人は慎太郎さん以外見たことがありません。
昔、潜水艦の乗員が命ぎりぎりの中で一航海すると白髪になるといいますが、あそこまで劇的に変化したのはみたことがありません。
それだけ、家長として兄として、弟のことを想う並外れた集中力に感激しました。
兄と弟という関係で、そこまでのものは珍しいのではないでしょうか。慎太郎さんと裕次郎さんはタイプがぜんぜん違うのに、兄弟として引き合うものがあったんですね。
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店の歴史は、実に80年以上。
うちの店は場所を4回移しています。一番初めは久木、次に現在の日産ネッツの場所、次に現在の店の斜め前、そして現在地です。
かつて逗子海岸沿いにあった有名ななぎさホテルにも理容室を開いていました。
ちょうど玄関を入って右側でした。
開く前は、髪を刈って欲しいお客様があると、出張していました。
戦後、進駐軍に接収された後も理容室を続けていましたが、当時1ドルは500円位、それを50円で計算され1ヵ月500ドルで仕事をしていました。
有無を言わさぬものがありましたね。理容室をやめてからも、戦前なぎさホテルで髪を刈っていたから、といって店に来る方もいらっしゃいました。
逗子のまちが華やかだったのは海上ページェントなどが行われていた頃。
スポンサーだった京急が三浦海岸へイベントを移すまで、海の女王のコンテストなど逗子で開催していました。
石原慎太郎さんも審査員をやっていたこともがあります。また池田通りは現在の半分の幅しかなく、バスやトラックがようやくすれ違える程度で、さらに道路がかまぼこ状だったため、傾いた車に、うちの店は時々軒先を削られました。
今から40年くらい前、ある日店を開けるとお客様が一度に13人も入ってきたことがありました。そして取っていなかった朝日新聞が10部入っていました。
見るとそこにうちの記事があり、それをみた人がお客様として訪れたのです。

それは、塩沢さんが昭和31年から10年以上続けていた、横浜の山手にあった横浜訓盲院へ慰問のヘアカットについての記事だった。
朝日新聞だけでなく読売や毎日にも掲載され、当時森繁久弥さんが司会をしていた文化放送のラジオでも取り上げられたとのこと。
理容師の若い仲間が月に二回、日の出町駅に集まり、奉仕に出かけていたという。塩沢さんが参加し始めたとき既に奉仕仲間の一人だった5歳違いの女性、それが後にご夫人となられた恭子さんだった。

お偉い様も、床屋の椅子に座ればひとりの人に
理容師、という呼び名にこだわる方もいらっしゃるが、私は床屋という呼び名こそ一番親しみがあってよいと思う。
時に見下されるような言葉ととらえられるが、床屋という言葉のなかにはいろいろなものがふくまれている。
そしてその言葉に価値をつけるのは私たち自身です。見下されるのか、そうでなくするのか…。国会議員でも、偉い人でも、床屋で椅子に座り鏡の前ではひとりの個人です。だから私は、誰でも同じように髪を切るのです。





インタビュー後記:
決して新しさはない。入り口の切り文字も、待ち合いのソファも、床のタイルも、古さは否めない。だが永い時を経てきたものにしかない、じっくりとした雰囲気があった。そして磨き上げられ、清らかで、輝いていた。
店主の塩沢さんも同じだった。すらりとスマートで、清潔感に溢れた方。お客様を気遣う繊細さと、技術者としての高い意識。時に相反する2つの兼合いを自身の中で仕切っていく強さが、‘髪を調える’という仕事には必要ではないだろうか。それを実に50年以上繰り返してきた人としての厚み、静寂と熱意が共存するような方だった。柔らかな眼差しには、優しさと意思の強さの両方が感じられた。


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塩沢理容店
逗子市逗子1丁目10-18

取材・文責:実行委員会
15:54, Tuesday, Sep 27, 2005 ¦ 固定リンク


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