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2005年12月
| 第四話 小林真道さん「これぞ元祖逗子・フィルムコミッション!?狂った果実・撮影ウラ話」 |
「太陽の季節」で鮮烈デビューを果たした石原裕次郎さん。
「自分の次の作品を映画化したいなら、弟を主役にしてほしい」という兄・慎太郎さんの申し出から、翌年公開された「狂った果実」では主役の一人として出演しました。
裕次郎さんが生涯のパートナー・北原美枝さんと初めて競演したこと、「作家と俳優」という石原兄弟の力が存分に発揮されたこと、なにより兄弟の生まれ故郷である逗子・葉山で撮影が行われたことなど、「太陽の季節」に匹敵する記念的作品ともいえます。
「狂った果実」には、今も逗子・葉山でみられる風景や街並が頻繁に登場しますが、映像に賑わいを与えているエキストラの多くは、逗子市民です。
今回は、「狂った果実」にエキストラとして登場した、「そば処たちばな」店主・小林眞道さんに、撮影の時の話などをうかがいました。
当時私は逗子小学校の4年生で9歳でした。撮影には商店街が結構協力していて、私は友だちと一緒に撮影に行きました。
同じ逗子小の4年生の友だちは10人位いました。子どもに大勢いてほしいということで、小学校に対して日活撮影隊から協力要請があったようです。
小林さんがでているのは、若者たちが出かけた浜辺の夜店。
他大学の学生に言いがかりをつけられ、(裕次郎)らが挨拶代わりの大乱闘を始めたシーンの次、自分が原因にもかかわらずクールに射的場で狙いを定める(岡田真澄)がガールフレンドと話しています。
その隣りで、同じように鉄砲を構える少年が、小林さんです。
子どもの中で、なぜか私ひとりが呼ばれたので行きました。岡田真澄さんはとても背が高く、普通に並ぶと絵にならないので、監督がスタッフに岡田さんの足元の砂を掘らせました。
30センチくらいは掘っていました。さらに私の足元には踏み台があったと思います。
岡田さんには何か話しかけられましたが、小さかったので内容までは覚えていません。
撮影の後、ノート5冊に鉛筆・筆箱などを日活の人からもらいました。他の小学生はノート1冊だったので、自分だけ多くもらったのです。
浜辺の夜店は、当時逗子海岸そばにあった夏限定の遊園地・コニーランド。
夜店のシーンのはじめ、画面右上に見える観覧車は、コニーランドのシンボルでした。
映画の中の夜店は、もともとコニーランドにあったものに、日活側が撮影用に追加したセットでした。大勢のお客さんも、私と同様エキストラとして呼ばれた逗子市民です。服装についても、アロハ系にしてほしいという要望があったと思います。
コニーランドは東京の会社が夏だけ開く遊園地でした。そこの社長の娘と私は友達だったので、よく遊びに行きました。ビックリハウスにただで入れてもらえたり、回すのを手伝ったりしました。
観覧車のように大きなものは機械でしたが、ビックリハウスやコーヒーカップは人力でしたから。入り口のところには魚釣りゲームがありました。
本物の魚で、鱒みたいでした。
目を凝らしてよく見ると、夜店の電柱に「逗子・立花食堂」と書いてあります。
他にもお店の名前がチラホラ。
商店街は撮影にはずいぶん協力をしていたようですから。セットの夜店にウチの店の名前があるということは、広告料かなにか払っていたかもしれませんね。
当時親父は逗子中央商店街連合会の理事長と、逗子五業組合の組合長もやっていました。
撮影も親父に行けと言われたので行ったのです。
その後も、撮影やプライベートで裕次郎さんをはじめ俳優さんたちがしばしば逗子を訪れました。
映画やラジオを賑わした有名人たちが普通に街を歩く姿を、当時の逗子では見ることができたのでしょうか。
うちでは寿司屋もやっていましたが、こちらに船を持っていた森繁久弥さんが、三船敏郎さんと寿司を食べにきたりしました。
津川雅彦さんは「狂った果実」のときではないですが、その後の撮影の折に店に来ました。裕次郎さんのエピソードもあります。
裕次郎さんが共演者の浅丘ルリ子さんと店の前の通り(逗子郵便局前)を歩いていたとき、食べていたバナナの皮を道端にほうったんです。その瞬間を子どもだった私は見ていて、面白いなあと。
ちょうど現在の日本生命の建物の前でしたね。
エキストラとして出たことが映像や演技への親しみを生んだのか、小林さんは大学でマスコミュニケーションを勉強します。さらに俳優養成の専門学校も受験、見事合格しました。
「面白いコトをやろう」と言って、友だちが勝手に渋谷にあった「東宝芸能学校」へ私の写真を送ったことがきっかけで、俳優の専門学校を受験しました。学識試験の他、喜怒哀楽の表情をしろ、などという実技の試験もあったのですが、合格してしまいました。
ですが、大学も通いつつ専門学校も、となるとお金がかかるので入学はあきらめました。
マスコミュニケーションを勉強していたのは、新聞記者的な仕事がしたかったからです。ですが大学4年生のとき親父が交通事故で亡くなったので、長男だった私はマスコミ系で仕事が決まっていましたが全て断り、急遽店を継ぐことになりました。
店を経営するようになってからも、やはり好きだったのでしょう、「ドレミファドン」というテレビ番組に銀座通り青年会の仲間と出たり、商店街の役員をしていたため新聞やラジオなどの取材もよく受けています。
よくよく考えると、映画・ラジオ・テレビ・新聞など、主要なメディアは全て何らかの形で関係したことがありますね。
取材協力:小林真道さん
文責:文学記念碑「太陽の季節」設置実行委員会
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10:36, Tuesday, Dec 13, 2005 ¦ 固定リンク
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