| 第三話 渡辺順寛さん「小さな逗子から日本へ・・・手作り居酒屋甘太郎」 |

湘南の小さなまち・逗子から日本へ・・・。
でも、逗子で誕生し日本中へと広まっていったのは、「太陽族」だけではありませんでした。
今回は、逗子に「居酒屋甘太郎」第一号店を誕生させ、現在では全国に飲食店を展開する一部上場企業にまで成長した株式会社コロワイドさんの、約30年にわたる大躍進をご紹介します。
お話をうかがったのは、社長の渡辺順寛(のぶひろ)さんです。
逗子銀座通りに響く、「いらっしゃいませっ!」の声
―逗子にお店を開かれたのは、約30年前、ということですが、一番初めはなんと今川焼のお店だったとか。
逗子に居酒屋甘太郎一号店が開業したのは、今から28年前の、昭和52年(1977年)の9月。
現会長(蔵人金男さん)が経営する家族経営的なお店でした。
居酒屋をやる前は、会長のお父様が「甘太郎食堂」を長いこと営業していましたが、そこは甘いもの屋兼中華食堂でした。
「甘太郎焼」という今川焼が人気で、夏場になると銀座通りは歩行者天国になり、大勢の海水浴客で道が真っ黒になるくらいでしたが、そういった方たちもお客様でした。
先代が店を閉め、半年後に居酒屋を開業しましたが、その時会長は30歳。
私(渡辺社長)は、その甘太郎で大学3年生のときからアルバイトを始め、2年後の昭和55年(1979年)3月にそのまま社員になりました。
先代の経営していた中華食堂にも2、3回は行ったことがありましたが、大きな餃子と大きな今川焼(甘太郎焼)で有名な店だったそうです。
今でこそ数多くの飲食店がありますが、当時逗子銀座通りに居酒屋は一店だけ、広さは27坪、54席の炉辺焼きの店でした。
長いカウンター越しに、ずらりとならんだ新鮮な食べ物をお客様の目の前で焼き、柄杓でぱっと出す、そんなスタイルをとっていました。
メニューも最初は普通の紙に書いていました。
料理の提供は、一番初めは200円とか220円とかの均一料金でした。
料理の皿と一緒に(値段の)札を出すというシステムをとっていましたが、中には札を懐にしまってしまうお客様もいて、閉店後売上があわない、なんてこともありました。
―今の回転寿司のようなシステムを、先駆けて取っていたのですね。
お客様は商店街、当時の国鉄逗子駅の方、市の職員、郵便局、逗子小中学校、葉山の方など。
逗子は産業のないまちだから、そのような方が多かったですね。
夏場になると、葉山にヨット部の合宿にくる学生が毎年のように大勢詰め掛けました。
慶応、明治、中央などですね。
先輩に連れられて後輩が来て、その後輩がそのまた後輩を連れてくる、という感じでした。
―学生でも安心して来られるお値段だったからですね。
土日は家族連れが多かったです。
必ず何時何分に電話があって、いまからいくよ、という感じでいらっしゃる方が多かった。
おじいさんおばあさん、ご両親、お孫さんというように三世代で来て、家族で夕飯を食べて帰るのが定番、というのもありました。
若者が集まる明るい店でしたから、店で知り合い結婚したというカップルも多いですよ。
当時飲み屋というと、まだ陰湿な感じが残っていて、飲めばケンカ、というのもありましたけれど、うちはそういう感じはなかったですね。
地元の女性客も多くて、全体の3割程度はそうでした。
しかも若い女性ばかりで。
サーフィン雑誌などにも掲載されることがよくありました。
店内にはBGMを流していました。
今でいうところの有線放送ですが、流行のヤングミュージックを流していました。
店は逗子銀座通りの中央(現在の河野新聞店付近)にありましたが、そこからの「いらっしゃいませっ!!」の掛け声は、横浜銀行まで聞こえるといわれました。
元気のよさでは逗子一だったと思います。
私が当時店長をしていましたが、朝礼は通りに向かってやっていました。
横須賀、横浜からもお客様はいらっしゃいましたが、開店時間の夕方4時からいらして、終電11時40分の前、35分ぎりぎりまでいらっしゃいました。
席が足りなくなって、ビールケースをお店の前に出して座っていただくこともありました。
こういった一号店の、伝説を作るくらいの繁盛が、今のお店の基本になっているといえます。

懐かしい!開店当時の甘太郎お品書き

新鮮な食材を炉ばた焼で楽しむ、というのも新しいスタイルだった

びっくり料理の「かえる」とは…?
―現在でも甘太郎さんではユニークなメニューが多いですが、当時のメニューもとても面白い品名がありますね。
一号店から三号店くらいまでは、会長のアイデアが全てでした。
メニューは飲食店の「武器」、そして「武器」を磨くのが経営者の役割ですから。
朝、会長が南部市場に仕入れに行き、従業員たちはその帰りを待っている。
そして仕入れたものはその日のうちに売り上げる。
珍しいものを面白く、いいものを安くというのがその当時の基本姿勢でした。
逗子を飛び出し、県下へ、東京へ、全国へ!
―その後、逗子から藤沢へ移り、さらに東京へと進出したわけですが。
昭和61年(1986年)に本社を藤沢に移し、町田に東京第一号店をだしました。
ただ、町田は東京という認識があまりなくて、大和のからさらに商域を広げる、という意識のほうが強かったですね。
本格的に東京に進出したのは平成6年(1994年)6月、蒲田への出店です。
当時は居酒屋が右肩上がりの時代で、その中でもやはり東京が一番繁盛する場所だったので、そこに進出しようというわけです。
蒲田を選んだ理由は、既に神奈川県には数多く出店し川崎にも店があったので、ドミナント※での出店ということ、またセントラルキッチンから食材を運んでいたので近い場所ということなどです。
ですがなによりも、蒲田には既に、東京進出をしたら確実にライバルになる企業が出店していて、その競合に勝てば、東京でも勝てるだろう、という考えがあったからです。
JR蒲田駅前の東急に3店舗分空きがあり出店しました。
売上は日計であがってきましたが、それを見ると、実に開店当初から当社が勝ち続けたので、これはいけるだろうと。
そこで一気に拡大に出ました。
二号店は渋谷、そして六本木のロアビル、東京のど真ん中です。
そして現在は新宿だけで20店、渋谷も10数店など、首都圏には約300店舗があります。
東京進出の3年度には大阪に出店、現在は近畿圏で110件です。
また平成11年(1999年)に店頭公開を果たし、つづいて翌年東証第二部に上場、平成14年(2002年)9月東証第一部上場、平成15年(2003年)北海道に進出し、現在50店を展開しています。
昨年平成16年(2004年)には東北に55件、また今年に入って名古屋に出店し、提携店とあわせて約380店です。
総店舗数は約860店、売上規模は約1000億円となりました。
―階段を駆け上がるような勢いですね。
東京への進出は、まさに「機が熟した」、という感じでした。
「どう知恵をだせばお客さまの再来店をうながせるか」ということを、20年もの間神奈川でじっくり考えてきたわけですが、長年やっていると結構知恵が付くものです。
やはり逗子でずっと商売をし、そのノウハウを積み重ね、今の当社の商売の基盤になっています。
―ご商売の仕方で、逗子と東京進出後で変わったところはなんですか。
競争相手がいることがまったく違いますね。
日本全国をターゲットにすると、競争相手がそれだけ増える。
同業他社に対して、当社独自の差別化をいかにとるか、強みを伸ばしていけるような戦略を常に考えています。
例えば業態をとっても、総店舗のうち約100店は居酒屋甘太郎ですが、それ以外は別の業態で展開しています。
その種類は約70、アメリカンスタイルのレストランやイタリアン、和食、中華、カラオケ・・・と、ありあらゆる種類の業態をもち、出店する地域にあわせて選択しています。

初めてカラー写真を使ったお品書き。当時三店舗。
勇気と決断、そして情熱がなによりも大事
―小さなまち逗子から東京へと飛び出していった、その原動力というか、パワーはものすごいものがあったと思います。
その最初の第一歩だった、藤沢への本社移転のころはどのような様子だったのでしょうか。
藤沢に本社を移したのは、小田急沿線と京浜急行沿線に出店をしていこう、という戦略があったからです。
特に藤沢については、商売の面もさることながら、社内の人間の便利さという点もありました。
というのも、藤沢というところは電車の乗り継ぎのよいところですね。
東京にも、大和にも、新宿にも藤沢なら行ける、だが逗子ではそれができない…一度大船に出なければなりませんからね。
要は、会社の方向性と店の内部の動きとがマッチするのが藤沢だったのです。
逗子から一歩飛び出しどこに店を出すか…もう、これは創業者の土地勘というか、直感が全てです。
店を出したら絶対に成功させるんだという緊迫感が漂っていました。
物件選別の直感と決断の連続でした。
決断したら決して後ろを振り向かない、勇気と決断…当社の社名の由来「COLOWIDE…COURAGE(勇気)とDECISION(決断)」ですね。
この頃出店した店では、どういうわけか開店当日が台風や大雨ばかりで。
平塚店開店や逗子店のリニューアルの時は台風、大船店の時は柏尾川が増水して溢れ床上浸水したり。
一日の売上の有無が死活問題のときにまさに逆境に立たされましたが、でもそれらを跳ね返す程のすごいパワーがありました。
私はよく会長が、市場から戻った後配送トラックの中でばったりと休んでいるのを見かけました。
そういったパワーは「若さ」だけではない。
「情熱」があるからだと思います。
やると決めたら、とことんやっていく「情熱」、それが今の創業の精神になっています。
事業には数字の分析も大切だが「情熱」など非科学的な心的エネルギーが非常に大事だ、ということが、本当によく分かります。
―コロワイドさんからの、逗子へのメッセージをお願いします。
逗子も高齢化が進んでいるが、若い人も暮らす、活力のあるまちになってほしいです。
そのために、若い人たちが集まるようなかっこいい店を作ることで私たちは力になることができます。
逗子海岸のナポリレストランの「カンティーナ」や鉄板焼きの「蔵の木」などは、若い人が集まる湘南海岸の名物にもなっていると思いますし、近隣企業の従業員さんへの推薦店にもなっています。
また戸隠蕎麦「みなも」は、宴会や冠婚葬祭で使えるような店を、というのがありました。
逗子海岸を見下ろす2つのレストランには近所の方も随分お見えになっていただいているようです。
そういう方が、市外からお客様が来たとき海を見せるために連れてきていただくにも最高のロケーションです。
スポンサーとしてご協力している花火大会も、逗子の夏の名物になればと願っています。
※ドミナント:ドミナント戦略
ある一定の地域に集中的に出店や拡大をして認知度などを上げ,競合他社に対する優位性を保とうとする経営戦略のことです。
取材・文責:実行委員会
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17:42, Tuesday, Sep 27, 2005 ¦ 固定リンク
18:00, Thursday, Aug 25, 2005 ¦ 固定リンク
逗子の子どものおやつは?と問えば、誰かが必ず答える「珠屋のケーキ」。
お誕生会のケーキが珠屋だった、という方も多いのでは。実は、太陽族が闊歩していた50年以上前から逗子銀座通りにある、老舗なのです。
シュークリーム、エクレア、スイスロール...慎太郎さんや裕次郎さんもあこがれた魅惑のスウィーツたちを、創業以来作り続けてきた高梨 文さんに、お店の歩みや、石原家のお話をインタビューしました。

―創業50年とお聞きしましたが。
・現在の場所(逗子銀座通り)にお店を構えてからは50年が経ちました。それ以前は森戸海岸にお店があり、写真屋や海の家なども致しました。「かぎや」さん(現在の海浪)・菊水亭さんとならんで営業しておりまして、夕方になり店にあかりがともりますと、その辺りは「いかにも森戸らしい」風景になったものです。現在の場所に移りましてからは、当時では珍しかった洋菓子店を開店しました。その後ケーキ工房を店の上に作ったり、喫茶スペースを奥に作ったりなど改装をして、現在の姿になりました。
―最近では逗子にもケーキ屋が増えましたが、当時は珠屋だけでした。子供のとき、お菓子のご馳走といえば珠屋のケーキでした。お土産でお客様が見えると、客間をこっそり覗きながらワクワクしたものです。
・当時贈答用としてご用意しておりましたのは、スイスロールと、白スポンジにチョコレートをコーティングし、胡桃をあしらったケーキの2本セット。1000円という価格は、当時としてはかなり高価だったと思います。ロールケーキは(クリームの)絞りなどを施したケーキより比較的作りやすかったということもありまして、開店当時から作っておりました。
―50年前というと、ちょうど太陽族が闊歩していた頃ですね。その当時からあるケーキというとなんですか。
・開店当初からあるのは、シュークリーム、ゼリーなどですね。今は止めてしまいましたがババロアなども作りました。シュークリームはレシピも変えていません。ゼリーは濃い緑色で、もう少ししゃれたもののほうがいいのではと主人に言ったんです。でもこれでいい、ということだったので、そのままにしております。
―あのカラフルさがまた魅力的で、子どもにはうれしいおやつですね。今の一番人気ケーキは、なんといってもピーチロールでしょうか?石原良純さんがテレビ番組で紹介してから、一躍有名になりましたが。
・お店のケーキとしては新しいほうかと思っておりましたが、それでも40年は売っておりますね。その他昔からあるものといえば、モザイクやザバロールなどですね。

人気ナンバーワン・ピーチロール。今日も残りわずかだった

ロールケーキは今も昔もヒット商品。「新メニュー」マロンロール
―石原家の方もケーキを買いにいらっしゃいましたか。
・まだ4人の息子さんが小学生位の頃だったか、お母様と一緒にケーキを買いにお見えになったことがありまして、店の入り口でさわいでいると、お母様の「静かになさい」の一言でぴたっとおしゃべりをやめ、お行儀よくしていたのが印象的でした。また、長男の伸晃さんだと思いますが、中学生くらいの時赤電話をかけておられる時、その話をする様子がとてもきっちりとしていて、お家でしっかり躾をなさっているのだ、と思いました。大きくなってからはお勉強が忙しくなったのか、あまり見えなくなりました。
―最近はいかがですか。
・石原慎太郎さんご自身が買いにいらっしゃることもあります。先日も、東京に帰るときに立ち寄ってくださいました。私が「いつも同じことばかりやっているんですよ」と話すと、「それが、いいんですよ」と言ってくださいました。
―確かに珠屋さんの魅力は、子どものとき食べた味がそのまま「変わらないこと」だと思います。いつでも変わらずそこにあり、安心して食べられる「家庭の味」のような感じですね。
・このあたりの奥様方は、東京から逗子までお茶も上がらず帰り珠屋に来ると「ほっとするのよ」と言ってくださいます。私などは、東京に出た時、今どきのケーキをみると、変わらないといけないのではないかと思ったりしますが、お客様からは「変わらないで」とよく言われます。お店でスポンジからしっかりと、お客様の望まれる味をきちんと作っていくのが、一番だと思います。
石原家の食卓・この逸品
<太陽族も頬ばった、変わらない味のおやつ>シュークリーム
昔から変わらないレシピ、と高梨社長もお話していたシュークリーム。二つに割ったシューの間に挟まれたクリームは、よく見かけるホイップ状や生クリーム入りのものではなくカスタードクリームです。ほのかなバニラの香りがし、甘さも控えめすぎず、くどすぎず。リキュールなどを多用した最近のお菓子の香りとは異なる、昔ながらの味わいです。香ばしい薫りのシューも、しっとりとした感じがクリームと口の中で一つに溶けあいます。まるでお母さんのような、優しい美味しさです。

シュー・ア・ラ・クレーム
<これぞ、珠屋ケーキの真髄!>復刻版・スイスロール
復刻版として登場した「スイスロール」。ロールケーキが珠屋ケーキの始まり、と教えていただきましたが、「ロール・バタークリーム・アプリコットジャム」という珠屋ケーキの三大要素?を兼ね備えた、まさに真髄とも言えるケーキです。

伝統の味:復刻版スイスロール
キメの密なスポンジと真っ白なバタークリームを一緒に巻き込み、上に固く煮詰めたアプリコットジャム、アーモンドスライス、網目に描かれたアイシングが飾られています。最近のふわふわスポンジとは違う、どちらかというとどっしりしたスポンジはとても食べ応えがあり、甘さもしっかり。でもこれがバタークリームのなめらかなコクとぴったり合って、一つで大満足気分になれます。濃いめのコーヒーや紅茶とあわせると、おいしくいただけそうです。
珠屋洋菓子店
神奈川県逗子市逗子1-5-8
電話 046-871-2242
ホームページ http://www.tamaya1950.com/
eメール info@tamaya1950.com
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取材・文責:実行委員会
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12:16, Thursday, Jul 14, 2005 ¦ 固定リンク
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