ケン幸田の世事・雑学閑談(千思万考)
第八十三話:「如月は火事が多かった」
2018/02/09
 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われ、季節的に空気が乾燥し、風も強かった一月下旬から
二月にかけて江戸の大火は集中して派生したようです。
江戸は火事の歴史と言っても言い過ぎではなく、市中が灰と化してしまうのでしたから、
実際深刻だったにも拘らず、徳川幕府が良くも二百六十年以上も持ち堪えたものだと思われます。
理由は簡単で、当時の世界大都市の中でも最多数だった百万もの人口をのみ込んだ江戸の街は、
木造の長屋主体の密集地だったことに尽きます。
中でも明暦三年(1657年)の大火は二日間に亘って燃え続け、折からの強風に煽られて火の手が広がり、
商家や長屋から大名・旗本屋敷、寺社、橋に至るまで焼き尽くしました。この火事で江戸城天守閣も
焼け落ち、さらに湯島天神、神田明神、歌舞伎座や人形芝居小屋、遊郭の吉原も、皆燃え尽き、
死者が十数万人を数えたと言いますから、ただ事ではなかったようです。
 
如月や身を切る風に身を切らせ 鈴木真砂女
三度火事に逢うて尚住む神田かな 岡本松浜
 
頻繁に発生する火事に備えるため、幕府も諸々の対策を講じ「定火消」という消火組織を作ったり、
半鐘を備えた火の見櫓の設置を義務付けたりしました。また、焼け跡には「火除け地」と呼ばれた空地を
設け道路を拡張して、飛び火を防ごうとしましたが、こうした場所で現在にも地名として残っているのが
「広小路」(旧下谷広小路の名残が、現上野広小路)です。江戸中期になると、町方の消火組織が
形づくられてくるようになり、享保時代には(1700年代早期)「いろは四十七組(後四十八組へ再編)」
の「町火消」が登場しました。
 
きさらぎや火の見のうしろ潮満ちて 奥名春江
 
一方、火事に備える長屋の住人たちも結束力が強く、ボヤ程度のものなら皆で協力して消火に当たりました。雨水を溜め込んだ天水桶が常備されていたし、共同の井戸水とバケツリレーも役立ったようです。
手に負えない大火の場合、長屋の若者が即座に火元と風向きを確認して住人に知らせると、
皆が身支度を整え風上へと一目散に避難しました。身支度と言っても、大した家財道具もないので、
せいぜい鍋・釜・茶碗に布団と言ったところだけで、それは迅速で、元々家は自分のものでもないし、
ある意味気楽なことだったのです。家主こそ気が気でなかったものの、店子は失うものが殆どなく、
慣れ切っていたという訳でした。火事の後は、復興のための大工、左官、建具屋など
職人(その殆どは長屋の住人でしたから)の手間賃がぐんと上昇し、かえって生活が楽になるし、
街全体に特需が起こり、全体の景気も良くなるので、燃えても、燃えても、すぐ立ち直る江戸町民の
パワーは見事だったという他ありません。
皮肉な話、江戸の火事は好景気という実を結ぶ火種だったのでしょう。
 
 
 
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