湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々
湘南を愛しながら湘南人とは距離をおいた住友友成男爵
住友家第16代当主の俣野別邸復元
2017/04/06
2017年4月1日、国の重要文化財として大事にされていた第16代住友吉左衛門氏の
俣野別邸復元が完成し、近隣の関係者を集めてセレモニーが開催されました。
放火?による焼失など苦難続きであっただけに、復元に尽力した関係者の心からの
喜びが伝わってきた楽しいセレモニーでした。

太陽と海山の自然に恵まれた湘南地方は東京から交通至便。
昭和の初めから東京で活躍する全国の政経財界人、文化人など多くの人を
魅了してきましたが、京都出身の第16代住友吉左衛門、住友友成氏もその一人でした。
しかしながら別邸の立地と住宅規模から察すると、住友氏の場合は湘南を愛してはいても、
湘南人との同化は好みではなかったようです。

俣野別邸は簡素で質素がコンセプト
大財閥当主の別邸としてのスケールを期待する見学者は俣野別邸母屋の
狭さ、質素、簡素に驚かされるでしょう。
昭和時代初期の湘南に建築されたイギリス風和洋折衷別荘とは大きく異なるからです。
政財界人の湘南地方の別荘は会議や大勢の来客を予想して建築されることがほとんどでしたが
居住スペースが120坪くらいの俣野別邸の簡素な狭さからは、、ここは純粋に家主と家族だけが
利用する住まいということが伺えます。
別邸で会議を開くことも、会食することも無かったでしょう。

どのような用途の建築も時代背景の政治、経済、国際関係を知らねば批評、評価はできませんが
加えて重要なのは建築主の思想かもしれません。
特に住宅は建築主の棲み処(すみか)ですから、建築主の生き様を知らねば評価できないでしょう。
筆者は俣野別邸の主の生き様を、この建物だけで推測しています.
本来は別邸の、どのあたりまでご本人が関与したかを知らねば、的外れとなるかもしれませんが、
昭和史の小さな断片を推測で綴ってみました。

 写真は2017年4月1日復元建築オープン日に撮影.緑と花が豊富になってから順次入れ替えます


俣野別邸を建築した住友友成男爵
1939年に建設され、俣野別邸と名付けられた住友家16代当主住友吉左衛門(住友友成男爵)氏の
邸宅は湘南の外れ、俣野地域(旧鎌倉郡俣野村)の高台(現在の横浜市戸塚区東俣野町)に立地します。

現在ならばこの別邸をはるかに凌ぐ規模と内容を持つ邸宅が珍しくありませんが、純和風か、
イギリス風の和洋折衷が多かった時代としては、現代風の珍しい住宅といえるかもしれません.
トータル・デザインでは装飾を可能な限り削ぎ落し、簡素を貫いています。

最も特徴的なのは景観を愛でるためのスペースが多いこと。
ディテールは設計者任せかもしれませんが、景観へのこだわりは建築主の思想を感じます。
狭いながらも、各方角の自然を望めるように部屋や各種のスペースを配置しています。

家主の住友友成氏は1909年生まれ。京都大学を卒業後住友合資社長。
1937年には20代で住友本社社長となりますが、先代友純氏と同様に銅鉱山業、金融業を中核にした
住友グループの事業には直接タッチせず、精神的な支柱としてグループを統治。
事業は歴代、広瀬宰平、伊庭 貞剛、古田俊之助氏ら財界ではよく知られている総理事が
取り仕切っていました。
住友財閥は他の財閥に較べ別子銅山が稼ぎ頭。
国内志向であったところが三菱、三井と大きく異なります。
湘南に別荘を構えた三菱、三井などの財閥家、明治維新の功労者の華族や公卿華族には
欧米に渡航して学んだ子弟が多く、住宅建築には欧米文化が様々な形で採り入れられていました。

「湘南文化とは:終戦(1945年)により芽生えた湘南文化」
http://www.botanical.jp/library_view.php?library_num=220


住友友成氏の青春時代は世界的動乱の渦中
友成氏の少年時代、青年時代は1920年代後半の世界恐慌から続く1930年代の世界的動乱時代、
俣野別邸は動乱がピークに達した頃に建築されましたが、当時はまだ30歳。
建築直後の1941年には太平洋戦争が始まります。
1945年の終戦。連合軍による財閥解体。財閥関係者の公職追放と続いた混乱時代の青春は
友成氏には大きな負担であったことが想像できます。
住友友成氏は若くして画家を志した兄と同様に公卿の流れを汲む繊細で感受性が強い風流人。
大戦中から詩歌に傾注し、戦後は歌人として暮らしていたようです。
湘南を愛したからこそ別邸を建て、子供を湘南白百合学園に通学させたたのでしょうが、
湘南別荘族の主流は首都の政治、経済、文化の中枢で活動する皇族、華族、政財界人、
海軍軍人、文化人とその子弟。
多くが維新後に全国から上京したとはいえ、華族、政財界人は長州、薩摩、土佐など
維新の功労者家系が上位。子弟の多くは海外留学経験者。
俣野別邸近隣に作られた藤沢ゴルフクラブでプレイする人たちとは肌合いも異なったのでしょう。
群れたがる国民性への抵抗から同化を嫌ったのかもしれません。
ゴルフ、テニス、マリーンスポーツもしませんから、湘南人との親密な交流はなかったようです。
大戦後は世捨て人のような心境。
「花鳥風月」を愛でることが出来る広大な自然環境で静かに暮らしていただろうことは
想像に難くありません。
 
俣野別邸は広大な庭園で知られており横浜市が公園として管理しています。
庭園は5.8㌶(5.8万平米)、坪に換算すれば約1万6千坪.
俣野地域は湘南住民の野菜を担う藤沢市亀井野、六会に拡がる農村地帯。
1939年に大部分が横浜市に編入され、別邸所在地は戸塚区東俣野町。
 

1920年から30年代の湘南の別荘中心地区は大磯、茅ヶ崎、江の島、鵠沼、葉山、鎌倉。
いずれも人口が少なく、里山も多数点在していました.
3㌶くらいまでの別荘が多かった当時に、5.8㌶の規模は個人邸としては広大ではありますが、
大磯、葉山、片瀬でも歌人として望む環境が確保できないことはなかったでしょう。
俣野地域を選択されたことには特別な意味がありそうです。
1930年代でしたら片瀬江の島の後背地である片瀬山、鎌倉山や北鎌倉駅の大船寄り、
葉山海岸の後背地に10ヘクタールくらいの別荘地が十分ありました。 
  
      エントランスの狭さからも仕事関係の来客は想定外と考えられます.
      ドアデザイン、アクセントのウルシ塗の柱や照明器具などアールデコ風の装飾を所々に
      観ることが出来ますが、ディテールに友成氏の好みが反映されたかは不明です.

 
   欧米風建築では狭い階段は踊り場から折り返すのが一般的.安全性への配慮ですが、
   ここは踊り場はあるものの、日本の伝統的民家同様に階下まで直線なのが特徴的。

   
 
  (写真上左)リビングルーム         (写真上右)2F西側の展望室
  プランク・タイプ(plank)のフロアー材と塗装は、建築時とは素材や着色が異なります.
  リビングのマントルピースや背面の白い石材も建築時の素材ではありません.

 
(写真上左)エントランスのたたきに貼られた木材は消失を免れた床材(?).
      この時代の西洋建築の床材は各種のオークやメープルなどが主流.
      面取り(bevel)や溝入れ加工(Tongue and groove)の精度や色も異なりますから
      雰囲気を左右する木製床材は、建築時に忠実な復元にすべきでしょう。
      現在の国産品床材は楢(なら)など独特な木種と加工法ですから
      戦前の雰囲気とはなりません.

(写真上右、下左右)ヘリンボーン(herringbone:ニシンの中骨)に施工された最近の床材.
 
    空調は復元されていませんが、当時のセントラルヒーティングはスチーム・ヒーター.
    
石炭で水を沸かしましたが、大戦後はほとんどの住宅で、たまにしか使用されなくなりました.
    俣野別邸復元ではどのスペースにも放熱器の形骸が残されていませんので空調方式は不明

    写真上左のアルコーブ(alcove)からは、友成氏が読書好きだったろうことが伺えます.
    開口部には金属サッシを多用し、多くの別荘が採用していた雨戸の「鎧戸」も全くありません.
    開け閉めが苦労で、使用人が余計に必要だからでしょう。

 
(写真上)ベッドルームと茶室を兼用?台座はウルシ(風?)

  (写真上)ダイニングには消失を免れた天井板(復元のために別途保存されていた).
       花鳥が彫られています.照明は金属で竹編みのイメージを表現.
           .
 
(写真上)リビングルームの照明器具.珍しいデザイン

(写真上)五右衛門風呂が多かった当時としてはバスルームが超モダン欧米風.
(復元ではないかもしれません)


     建築当時の焼き物でしょうが、類例を見たことがない珍しいものです.
  木造建築専門の大工、工務店は伝統的な焼き物を素材として使用する術に長(た)けています.

  

       テラスの粗い麻布(?)で紋様付けをしたタイルは特異であり印象的
 
  部屋数が少ない割にインドア、アウトドアに数カ所あるティールーム、ベランダ、テラスに
  十分なスペース。家主がいかに自然の展望を愛したかが想像できます。


  木造建築のみを扱ってきた大戦前の日本人設計者が和洋折衷の建築に使用した石質の
  床材、壁装材、装飾の素材を知ることは建築素材史的な魅力があります。

  俣野別邸は欧米人設計者やその弟子として学んだ日本人設計者の監修が無いだけに
  なおさらですが、残念ながら詳細は不明です。
  おそらく建築当時の1930年代は、写真上のタイプの石材では無かったでしょう.
  バスルーム、リビングルームのマントルピースや背面の白い石材も建築時に使用できた
  タイプではありません.
  俣野別邸復元で使用されている石材はライムストーンではありませんが、
  大理石としては変性度が低く、日本で使用されるようになったのは60年代ごろ以降です.


  
 素朴な火山岩石材の乱張り.欅(けやき?)のベンチからは目立ちたくないという思想が見えてきます.

当初の建築は設計と工務店を兼務する佐藤秀工務店。
俣野別邸の建築は佐藤秀三郎氏が独立して10年後くらいでした。
佐藤秀は和風住宅建築、寺社建築が主体の工務店。
住宅は俣野別邸のように西洋建築様式を採り入れた折衷建築が多かったようです。
和風住宅建築の工務店だけに壁、天井の仕上げ、屋根の仕上げは一般的な住宅でも見られる仕様。
質素で目立たずにひっそりと生きたいという家主の思想が見えてきます。

大きな屋敷を持つ湘南の人々が直面した問題は使用人や管理人の住スペースの確保。
住友友成氏が作ったスペースは他の別荘にはない規模。全体の3分の1強を占めます。
本邸の居住スペースはわずか100数十坪強ですから、住を確保してあげたいという
優しい心が伝わってきます。
事情があったためでしょうか、今回の復元は設計も施工も別業者。
不明箇所が多々ある中で復元した苦労がうかがわれます。

しらす・さぶろう
 
 
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