湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々
湘南文化と片瀬の山本家:湘南白百合学園の開園
2013/10/03
  1. 20年間で消滅した湘南文化
  2. 片瀬の山本家
  3. 湘南文化を築いた山本家
  4. 山本庄太郎
  5. 山本庄太郎と川袋の干拓事業
  6. 山本百太郎
  7. 山本家と暁星学園
  8. 湘南白百合学園(乃木高等女学校)の開園

神奈川県藤沢市片瀬の本蓮寺(ほんれんじ).山本家が檀家総代.
鎌倉時代の湘南の寺や庭は華美で威圧的な雰囲気はない。
本蓮寺の手入れの行き届いた質素なたたたずまいは姉妹寺の常立寺と並び
まさに湘南の寺.



(写真下)
本蓮寺(ほんれんじ)の並びにある常立寺(じょうりゅうじ)
枝垂れ桜が有名.鎌倉時代に近くの竜口寺(りゅうこうじ)
で斬殺されたモンゴルの特使を祀ってある

 

1. 20年間で消滅した湘南文化
現在では神奈川県の相模湾沿岸から、奥深い内陸部分まで、広い範囲が湘南と呼ばれることがありますが、
半世紀前は、別荘が多かった葉山から大磯にかけての一部沿岸地域のみを湘南と呼んでいました。
世界大戦後(1945年)、進駐米軍の大衆文化流入によって、50年代に独自の文化が形成されて
湘南と呼ばれるアイデンティティーともなりましたが、戦後の復興が軌道に乗る60年代には、
差別化された文化を発していた人々がUターンを始め、離れていきます。

最低でも3-600坪近く、大は1万坪を超えた別荘地も、転居や相続等で手放され、
40坪前後に切り刻まれて分譲。
新たな住民がメジャーになると同時に独自文化も消えてしまいました。
日本の経済力が急成長する、この頃、アメリカがヴェトナム戦争の泥沼化で
輝きを失いつつあったのが象徴的でした。
現代に多くの人がイメージしている湘南の生活文化は、60年代終わりごろからの人口急増と共に、
20年間くらいで消滅してしまいました。

 
2. 片瀬の山本家
現在の住民のほとんどが知らないままに大戦後の湘南生活文化が消滅してしまったのは、
文化の渦中にいた人々が多くを語らず、残した記録が少ないからですが、
湘南の片瀬(藤沢市)には文化の形成に中心的な役割を果たした山本家が続いており、
語り部ともなっています。
江戸時代から近年まで続いた山本家の地域開発は、大戦後の湘南文化形成に
中心的な役割を果たしました。
文化も途絶えて40年以上が経過すると、山本家は山本橋や山本公園を作った
旧庄屋、旧村長などという程度の認識が多いようですが、山本家は日本各地に存在した
旧来の庄屋とは大きく異なる真の意味のデベロッパーでした。

3. 湘南文化を築いた山本家
首都圏に近い海浜リゾート地帯は三浦半島や房総半島には珍しくありませんが、
湘南地域は要人に対応できる高級リゾート地として、明治時代より、永年にわたり
町づくりの布石が打たれていました。
歴史的文化遺産がある景勝地の鎌倉、江ノ島の存在が国政の協力を得られた最大の理由でしたが、
その町作りの基礎を築いてきたのが藤沢市片瀬の山本家です。


大戦後の一時期であれ、おぼろげであれ、当時の湘南文化が差別化された独自の文化として
芽生えたのは、明治時代から昭和にかけての山本家の尽力によるものといっても
過言ではありません。
欧米人に違和感の少ない、利便な環境が整備されていたことが、大戦後に進駐してきた
米軍人の保養地として愛され、新しい文化が発生する基となりました。
山本家は江戸時代からの名主、庄屋であり、明治時代は鎌倉郡の郡長として
片瀬地域の発展に貢献してきました。

町作りに重要な宅地造成、鉄道、電灯などインフラの整備を他の地域に先んじて実行し、
湘南の各地域に文化的影響力を及ぼした学校とカトリック教会の設立を援助したことが、
湘南の独自文化発生につながりました。

片瀬カトリック教会の隣地に1967年に完成した通称「山本公園」は1962年に先代当主山本龍太郎氏から
藤沢市に寄贈された広大な公園.園内には山本家所有当時からテニスコートが3面あり近隣の住民に
開放されていた。
近隣住民の健康のために私有財産を惜しげもなく提供する豊かな心は、正に「湘南人」元祖の一人。
写真左は寄贈記念に龍太郎が建立した「大望の像」

 
4. 山本庄太郎
幕末から明治にかけて山本家の当主であった山本庄太郎はその一生を地域行政に
捧げた人として知られています。
幕末の名主代理を振り出しに、大区制の時代には区長として地租改正のための
周辺の地図作成に尽力し、郡制度となってからは郡長を40年間勤めています。
鎌倉郡の事務所は戸塚にあったそうですが、鉄道のない時代に毎日5時に家を出て、
人力車で戸塚まで通勤するのは並大抵のことではなかったでしょう。
公務のかたわら耕地の開拓を地道に進め、明治20年(1887年)には漁業権も獲得して網元となり、
宮古島より数十名の漁師を雇用。
江ノ島近海でマグロ、ブリ漁を太平洋戦争後の法改正まで続けていました。
庄太郎は三人の男子を残しました。
庄太郎を助け、片瀬地区の宅地造成や江ノ電の敷設に多大の貢献をする百太郎。
暁星学園に通い、フランス語、英語をマスターして海軍軍人となり、原敬首相の下で
国際的に活躍し、片瀬カトリック教会の設立に尽力した信次郎。
桂太郎首相の秘書となり中央の情報に通じた三郎の三人です(敬称略)。
庄太郎は大正8年(1919年)に亡くなりました。

 
先祖伝来の衝立(ついたて)はダイナミックな開発を続けた
山本家らしく植物より動物をモチーフとしたものが多い.


5. 山本庄太郎と川袋の干拓事業
明治維新前の片瀬、腰越、鵠沼地区は砂丘が多く、集落は寒村、部落といえる規模であり、
住民は半農半漁で生計を立てていましたが、ごたぶんにもれず天候不順により飢餓に
襲われたことも少なくありません。
特に幕末の慶応2年(1866年)の大飢餓の被害は大きかったといわれます。
山本家はそれまでにも耕地の少ない片瀬周辺を開拓して、12000坪は新田を作っていたと
伝えられていますが、当時30歳代の庄太郎は管轄下住民の救済に、片瀬川湿地帯の干拓による
田地造成事業を企画しました。
干拓されたのは現在の石上駅から柳小路にかけての県道(467号線)寄りの一帯(秩父宮記念体育館近辺)で、
当時は片瀬川(境川)が大きく迂回して出来た川袋の湿地帯でした。
この湿地帯42000坪を開拓し、新田(しんでん)を作ったのが名主代理であった山本庄太郎でした。
古くからの湘南住民ならば、庄太郎の偉業と共に柳小路に近い田園地帯に設置された
江ノ電の川袋停留所を利用しています。
この辺りは地名も字川袋でした。
庄太郎はこの開発で得た知識を東京湾の金沢地区で永年にわたり干拓に苦労していた
永島段右衛門祐伯に供与したともいわれています。
永島の号である泥亀(でいき)にちなんだ泥亀新田(でいきしんでん)は
金沢地区にその地名がのこっています。
 
6. 山本百太郎


片瀬の別荘用宅地造成に活躍したのが庄太郎の長男、百太郎(明治元年生:1868年)。
死の病といわれた結核の養生に使われることが多かった海岸地帯を、
健康な都市生活者の別荘地として利用してもらうことを考えた先駆者。
そのためには生活基盤のしっかりした宅地開発が必要と考えて次々と手を打ちます。
百太郎は明治30年ごろから片瀬地区の砂丘に防砂の工夫をして植樹に成功。
開拓した7万5千坪は1反(約300坪)5円で払い下げられて、その後の地域開発の原資となります。
百太郎は20代のころから、村の収入役、郵便局長などを続けていましたが
同時に湘南の発展に大きく貢献した江ノ島電鉄(江ノ電)の敷設、電灯の普及にも成功しました。
江ノ電に関しては電鉄経営、地域開発のプロである甲州の事業家、雨宮敬次郎社長の下で専務となり、
私有地、資金の提供などで電鉄敷設に中心的な役割をはたします。
また百太郎は父庄太郎や弟の信次郎が築いたフランス系カトリック教会との関係を生かし
、晩年にはその学校や教会作りに側面からの援助をします。
地域の発展に学校の存在の重要性を認識していたのは百太郎が私財を提供して
片瀬小学校を誘致しようと努力したことからも伺えます。
百太郎は明治25年(1892年)に三浦の山林王である相川文五郎の次女ヨ子と結婚、
長男龍太郎(明治30年)を授かりました。
現在の当主は龍太郎氏のご子息です。

山本家の歴史を語る現当主.

 
7. 山本家と暁星学園
庄太郎は片瀬海岸に海水浴に来ていた暁星学園のアルフォンス・ヘンリック園長(フランス)や
ヘック博士(フランス人)、ワルテル教授(米国)などと交遊を持ち、後には宿の提供をしていました。
暁星学園はカトリック・マリア会(フランス・ボルドー)により明治21年(1888年)に東京で創立され、
ヘンリック氏が初代の園長でした。
ヘンリック氏らは欧米の習慣である健康増進の海水浴を片瀬海岸に持ち込んだ人たちともいわれ、
庄太郎は文明開化の新時代に対応して、次男の信次郎をその暁星学園に通学させます。
このことが大正時代に片瀬カトリック教会の前身ともなるフランス・カトリック系教派の聖堂を
自宅に開設することにつながりました。
また昭和になってからは、フランスを本部とするシャルトル聖パウロ会がこの地に
湘南白百合学園を開設しています。(信次郎に関しては、湘南よもやま話、第五話に掲載)
 
8. 湘南白百合学園(乃木高等女学校)の開園
湘南学園と同じ頃に戦後の湘南文化を発信したのが藤沢市片瀬の湘南白百合学園ですが、
前身の乃木女学校(現在の湘南白百合学園の前身)は湘南学園に遅れること3年、
昭和11年(1936年)に幼稚園を開園しています。
続いて、1937年に小学校、1938年に高等女学校を開校し、乃木希典大将にちなんで
乃木小学校、乃木高等女学校と名付けられました。
日露戦争に大きな軍功(?)があった乃木希典大将は、晩年(明治40年から)は学習院の院長として
生徒達と片瀬海岸に海水浴に来ており、宿を提供した山本家と親交を重ねていました。
軍国主義一色の昭和10年代ですから、片瀬と縁があった乃木大将が選ばれたわけです。

乃木希典将軍の青銅レリーフ.
太平洋戦争後に白百合学園となってからは撤去された。


乃木女学校は戦後になり湘南白百合学園と改名しましたが、湘南学園同様に、逗子から二宮に至る
広範囲な地域の別荘定住者子弟の受け皿となっていました。
財界、政界、学界、文化人などの著名人子弟たちに加え、外交官の子弟が多かったことも
国際的な感覚を持つ湘南文化の発生に影響を与えています。
大戦後には広田、吉田、内田、有田、来栖、出渕、朝海など、大臣、次官、大使クラスの
外交官一族が数多く定住していました。
 
湘南白百合学園のアイデンティティーを明白にして、かつ一躍有名にしたのは
終戦直後(1946年)の住友財閥本家、住友吉左衛門令嬢、邦子さんの誘拐事件です。
定住化した住民には三井、住友、安田、甘露寺、樺山、鍋島、松平、細川、松方、岩倉、前田など、
財閥や旧華族の名前がごく普通でしたが、改めて湘南白百合学園には
戦前のエスタブリッシュメントの子弟が多かったことが認識された一事でした。

しらす・さぶろう

(湘南よもやま話第四話 2007/04/11の復刻版)
 
 
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